青い日の戯言」カテゴリーアーカイブ

どっちが刑務所

シューカツやらビジネスやらの過程により人格が変わった知人がちらほらと。
呑みに行けば「あいつは変わった」と。口を揃えて「あいつもあんなやつじゃなかった」と皆顔を見合わせる。
俺はウイスキーに嗚咽しながらふと思う、そんなに残念がることではないだろう。
足を止め振り向き考えてみろ、
シューカツごときで変えられてしまう人格など、そもそも淘汰されるべくして出づるに過ぎない。
ひとことで言えば、それまでの人格だったんだよ。

波に乗るかのまれるか、その二つの選択肢しかないようだと思いがちだけれども、波はつくることもできるのだよ。

2012-02-14 13:29:56

清志郎

可愛さだけで人を魅けるのは若いうちだけ、男の容姿もまた然り。
本質を研磨せねば生殖本能に着眼点をおいた生き物としか出会えない。
と清志郎の曲を聴いてぼんやりと浮かぶおやつの時刻。

そのとある一曲の歌詞を掲載してみる。以下。

キミかわいいよね でも それだけだね
キミかわいいよね でも それだけだよ
それだけが キミと話してたら ボクこんなにつかれたよ
キミかわいいよ お人形さんみたい それだけさ
キミといっしょにいたら ボクこんなにつかれたよ

酒でも飲まなきゃ キミとはいられない
シラフじゃとっても いっしょにいられない
キミかわいいね でも それだけでね
それだけさ

水の無い川 エンジンのない車
弦の切れたギター ヤニのないタバコ

キミかわいいね テレビにでも出たら
キミかわいいよ モデルにでもなれよ
キミかわいいよ お人形さんみたい
それだけさ
ぼくは さよならするよ 男には困らないだろ

キミかわいいよね でも それだけだね
キミかわいいよね でも それだけだよ
キミかわいいだけだね ただそれだけだね
キミかわいいだけだね

平易な言葉で語れるということこそ、認識の深さの指標である。とのヴェッセルの言葉では無いけど、この曲の歌詞はいつ聴いてもハッとさせられる。なだいなだも書のなかで「なるべく軽く書きましょう。軽く書いても、あなたを軽くみているわけではないのです、重々しくなど書けないのです。重々しく書けないのは、書く気にならないからです。どうして日本では重々しく評論が、、」と触れているけども、わかり易く真理を突く事の意味性は深い。

俺は、齢を越えても人を魅く本質を孕んでいられるだろうか。
たとえ俺がそれを抱き寄せたとしても、お隣が違えばその色合いもまた薄れる。
合わせ鏡を眺めるように、
今一度掘り下げるべきか。

2012-02-11 15:14:23

Be a SNS

一ユーザーとしての自分を暫時切り離し俯瞰してみるとよくわかる。
既存メディア〜新規メディア間の乖離が日々進行していることが。
情報の重量や速度が変わっていくことによる世代間交流の困難さ、その自覚が各世代毎にあるのかが気がかりなもんだ。
嗚呼、そんな話書き留めるんじゃないんだった。

SNSにて、辟易する程俗に呑まれた主張をよく目にする。
アーティストやクリエイターと鼻につく肩書きに飾られた面々が、
形而上学的な希望成就論を連投連投、オレハビッグニナリマス。と。
表層これみよがしに食いつく俗世に塗れた若人たち。汚れゴトの上に成り立つ綺麗ゴト。

’イイネ’とボタンが押せれば共感気取り、誰もがボタンひとつでしたり顔。
情報と思考が手のひらで何処でもいつでも便利に出し引き。その顛末これ如何に。

あなたの戦場はどこですか、つべこべ言わず黙って生もうよ。
濾過しきれない異物をキャンパスに吐き出しゃいいよ。

語ったらおしまい。説明したらおしまい。

表層で何かを変えられる程真実は甘くない、不条理は温くない。
beyond descriptionなんです。

とうだうだネットに書いてるあたり、これらは自分に向けて言ってるんだろう

2011-11-10 04:02:46

クレーンゲーム

治らない風邪はないはずで、それでも風邪に怯えるのは人間の悪い癖なのだろうか。
そんな風邪のようなものに俺は揺られ、脅され生きている。
期待とはなんぞや。信頼とはなんぞや。俺は、何に、誰に、期待を。何をもって興味、好意と仮定してきたのだろう。
自身にしか期待も、信仰も持ち合わせていないはずだった。
向上心の無いものは屑だと罵り、吸水性の無い事柄には見向きもしなかった。
それがどうしたことか、単純に自分との差異に振り返り、その開きが大きければ大きいほど興味を抱くようになった。
感性の鈍りか、それとも慣性の進行か。
無を愉しみ、時をゆらりと過ごせる自分が今日いるではないか。まったくに信じられない。幻のようだ、幻なのかもしれない。
そろそろ目が覚めるのか、覚めそうなことを察したが故に、こんな思いに耽るのか。
とどのつまり、誰も自分の思うようには動かない、そして自分も自分の思うようには動かない。
その差異、その余白に生じるものがその人たらしめ、時として個性と呼ばれるのならば、
夏とは別の、一つの季節が終わるはずだ。
染み渡るこの懐かしき感覚、ニヒルで魯鈍で、憎ましいこの熱。
ピントが合っているとするなら、人生はペナルティキックのようなものだ。
誰も誰かのフィールドに立ち入りなんてできやしない。触れられるのは祈りだけ。

2011-09-26 06:17:13

夢の戯言

人は、年齢を重ねると共に現実に直面する機会も増え、その現実にどう向き合うかでその人間が決定されるといっても過言ではない。

そこでの行動は大きく2つに分けることができる。屈するか、屈さないか。

それだけ、それだけなのである。人生をさも複雑な難解なもののように喩える人が時にあるが、それは誰かのためでなくあくまで自らを納得せしめる動機付け、理由がほしいだけに過ぎない。

俺はこうすることにした。それは……だから。私は……だから、そうすることにした。

ただ己の掲げていた理想が現実に屈したことを認めることを避けたいがためだけの戯言。

結局理由などて差し障りなく、他人など場違いなのであって、生きるということは自分がどのように生きたいのかを己で知り、そしてそのはためく望みを現実に屈さず貫けるかどうかでしかない。少なくとも私にはそれが真実無きこの世界の真実に思える。

かつては私自身が誰よりも理由や動機付けに拘っていた。それは常に私に逃げ道を与え、人生のリスクを軽減してくれるものと縋ってやまなかった。

私の目を覚ましたのは、隣人でもない私自身だった。リスクの無い人生など無いことを、生きることそれそのものが己にとってリスクであることを、私自身の諦めの悪さによって教えられたのである。

幾多の現実を経た私は、生きるうえでひとつの、そして全てを司る選択をした。齢を重ねると共に出会う全ての現実に屈さない、と。

人生はシンプルだ。夢を叶えたければ諦めなければいい。やり続ければいい。いつだって諦めるのは人間自身の方で、勝手に足を止めるのも人間自身。

どんな状況になろうと、環境であろうと、屈するやつは屈する。屈しないやつは夢を掴む。それだけのこと。

夢という言葉のもつ本質は、地道で、苦しくて、我慢に我慢を重ねた先にようやく手に入るものに過ぎない。

夢は叶う。と誰かに言えるように、そのために、私が今この眼前に迫った夢を叶えなければならない。

イカロスの堕落という戯言

澁澤龍彦氏の著作を僕は線だらけにする。一つ目の線はここにひかれた。

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最初に身も蓋もないようなことをいってしまえば、人間の生活には、目的なんかないのです、人間は動物の一種ですから、食って、寝て、性交して、寿命がくれば死ぬだけの話です。

そもそも動物の生活には、目的なんかありやしない。ウシやブタの使命は、べつに人間に食われることではない。人間は、自分たちのつごうのよいように、かってに動物を「害鳥」とか「益虫」とか分類しますが、スズメはべつに人間を困らせてやろうと思って、稲の実を食っているわけではないし、トンボはべつに人間の役にたとうと思って、蚊を食べているわけではありません。そう考えるのは、人間の自己中心的な考え方です。

人間とは、じつに自分かってな、傲慢な動物で、ヘビやカエルのような姿の醜い動物なら、たたき殺しても平気ですが、たった一羽の公園の白鳥が酔っぱらいの手で殺されると、いやに感傷的になり、目の色変えて騒ぎます。ヒューマニズムなどという便利なものを発明して澄ましていますが、しかし、人間自身の生活だって、イヌやネコの生活と変わりなく、べつになんの目的があるわけでもなければ、なんの使命があるわけでもないのです。

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実にタイムリー。中国の諺のなかに「準備のできた人間のもとに師は現れる。」というものがあるが、僕にとって本は紙切れにも成り得るし、師にも成り得る。ときに、この著作はどちらであろうか。僕としては何が正しいか何が間違っているか、なんて軋轢はそれこそ万物尺度論ではないけども、各々が抱き悩むべきことであらうと思っているので、主義主張はまず胸の底に深く沈め込み、己の世界だけを展開する。その展開先がやれ現実的だろうと理想的であろうとそれは比較対象がなければ「〜的」などと謳えず、ただひとつの思考に過ぎない為、その主義主張は光も届かない地底に落ち着くこととなる。(僕個人の場合)

む、私的な日常がちらつく。今日はこれにて。

本来は明日夜から宮城ゆきの夜行バスに乗り込み、知人のトシ主催「農music、農life」に参加するはずだったのだが、まさかの土曜日に重要な課題提出がかぶるという惨事。血の滲むほどの悔しさを久しぶりに痛感している。どうする俺。と言っている余裕も無く数時間後には学校へむかう電車に揺られていることだろう。

やり場のないため息がそらにこだましてら。

幸福と快楽

僕は僕が望んでいた場所へ足をのばし、届かせたいと願った場所へ手をのばす。誰のためでもない己のために、誰かを救うだとか世界を変えるだとか、そんなことの遥か手前に、僕は僕の根源的な意識部分の充足にすべてを費やした。雲が生まれそして雨が降るように、根源を充足して後降り注ぐ灯火がある。その灯火が世界に煌めきをもたらすことは奥底の祈りとして眠れ。

始まりの戯言

その報道写真集は冷酷で、臓器を抉るような力があった。僕は僕の住んでいる現実しか知らなかったことをその夏に知った。
マザーテレサの名に何処か現実離れした距離感を抱きつつ、この掌にある現実を誰かが救うことを願った。ただ、待つ事を僕は知らなかった。幸か不幸か選択肢は無く、その誰かが自分である等と短絡的な発想しか持ち得ていなかった。
僕の目的地は漠然とした霧に包まれていながらもどこか形而上学的な本質を捉えているという過信があった。恥ずかしげもなく「世界を変える」等と謳えた。いつなんどきも、謳いながら全国をまわった。本気だった。だが、僕は歳をとった。経験が、目に映るようになっていった。現実は、想像以上に闇深く捩じれているものだった。その捩じれにそぐわないほどに僕は真っすぐだった。
僕は一度死んだ。

怠けの戯言

今この時を寝過ごしている貴方、今この時を遊びほうけている貴方。己の行き先を知っていますか。どうすれば其処までいけるか知っていますか。もう今から言い訳を考えているのではありませんか。走れ。つべこべ言わず走れ。言い訳は足がすり切れてから考えろ。弁解は墓のなかでしろ。今はただ只管に走れ。走れ。走れ。走れ。走れ。燃えろ、言葉ごと燃えろ、存在すら燃えたとき貴方は其処に立っている。