夢の戯言

人は、年齢を重ねると共に現実に直面する機会も増え、その現実にどう向き合うかでその人間が決定されるといっても過言ではない。

そこでの行動は大きく2つに分けることができる。屈するか、屈さないか。

それだけ、それだけなのである。人生をさも複雑な難解なもののように喩える人が時にあるが、それは誰かのためでなくあくまで自らを納得せしめる動機付け、理由がほしいだけに過ぎない。

俺はこうすることにした。それは……だから。私は……だから、そうすることにした。

ただ己の掲げていた理想が現実に屈したことを認めることを避けたいがためだけの戯言。

結局理由などて差し障りなく、他人など場違いなのであって、生きるということは自分がどのように生きたいのかを己で知り、そしてそのはためく望みを現実に屈さず貫けるかどうかでしかない。少なくとも私にはそれが真実無きこの世界の真実に思える。

かつては私自身が誰よりも理由や動機付けに拘っていた。それは常に私に逃げ道を与え、人生のリスクを軽減してくれるものと縋ってやまなかった。

私の目を覚ましたのは、隣人でもない私自身だった。リスクの無い人生など無いことを、生きることそれそのものが己にとってリスクであることを、私自身の諦めの悪さによって教えられたのである。

幾多の現実を経た私は、生きるうえでひとつの、そして全てを司る選択をした。齢を重ねると共に出会う全ての現実に屈さない、と。

人生はシンプルだ。夢を叶えたければ諦めなければいい。やり続ければいい。いつだって諦めるのは人間自身の方で、勝手に足を止めるのも人間自身。

どんな状況になろうと、環境であろうと、屈するやつは屈する。屈しないやつは夢を掴む。それだけのこと。

夢という言葉のもつ本質は、地道で、苦しくて、我慢に我慢を重ねた先にようやく手に入るものに過ぎない。

夢は叶う。と誰かに言えるように、そのために、私が今この眼前に迫った夢を叶えなければならない。