100年後には今生きている人は誰もいないというこの事実に人生の哀しみと素晴らしさが詰まっていると思うから、今日も明日も人生のラストダンスのように踊りませんか。

大人気無いことを書く。
先日、数ヶ月振りに友人の墓参りに行き、墓前の前で鼻水だらだらになりながら落涙した。しょっちゅう線香をあげに行っているのもあり、言わばもう慣れてるにも関わらず、だ。慮外な出来事に自分で驚いた。ちょっと引いた。ティッシュの用意なんて無かった為に腕で鼻水拭いたし。

二十歳になるまでに幾度か親しい人を亡くしているので自己分析として「自分は死別に免疫がある」と解釈していたのがおそらく間違いだったようで、時を経て爆発した様だった。

ただ、かつての盟友たちを想い哀しみが込み上げたというよりも、生きていく限りこの螺旋からは逃れようのないこと、生きていくということは死別との同居のようなものだということを少し齢を重ね確信したことによるものだったと思う。

そんな当たり前のことを何言うてんねん、と一億総ツッコミしたいところだとは思いますけれども、こんな辛い当たり前が他にありますか。好きな人も、ちょっとうざいなあいつ、とか思ってた人も、僕も、皆と明日か、あるいは一年後か、数十年後か、いつ突然来るかわからないタイミングで二度ともう会えなくなるんですよ。僕は何度経験しても恐い。

でも、それが 生きていく ということなんだと、この二十五の初夏に改めて実感した。
ありきたりだけれど、僕は初めて友人を亡くした時から全力で生きることにした。周りがやっているから自分も、ということはやめたし、計算より感情を優先していく方向にスイッチした。何ひとつ諦めないと決めた。自分の中のリトル黒川に素直になるようにした。好きな人には好きだって照れられてもどつかれても言うようにした。やると決めたことはすぐに行動するようにした。友人に、帰り気をつけてね、と言うようになった。

失うことを恐れない為にも日々に繊細に、生きることに丁寧に、自問自答しても胸を張れる後悔のない今日を毎日過ごそう。