二子玉川の高島屋

時を振り返る時に、実感は無い
からだの小さい頃の自分を見て、それが今日ある自分と地続きに在るとは思えずに。
自分の年齢を確認する度に、今この瞬間に生成された何者かを自分だと映されて設定されている気がしてならなかった。
コーエン兄弟の作品のようにプラグを刺され、過去という作られた物語を見せられている自分という点があるのではと
時間を遡る手立てが記憶という不確かな形而上な紐を伝うしかなかった
疑い続けて握りまさぐり続けた眠るときに死を構え、起きたときに生き延びていたことを実感し続けた先の今に
16歳当時の自分の、詩を初めて書いた日の時間、風、場所、服装、表情筋、全てが今この今、今、今刹那の私の質量、皮膚、経年劣化に繋がり一致した
寸分の時のずれも違わずに、あの時からあらゆる歴史、あらゆる事象、消えた重さと生まれた重さを経た先に、この部屋に佇む私がいる
時間は、どうやらまやかしでは無さそうだ。私たちは本当に時間を経過している。
何分の一も身体が小さかった自分の写真があれば、まるで今の自分とは合点がいかないが、きっとそれは自分だ
後付けに付与されたように思える記憶も、それは思い出という言葉に装飾されたものではなく
時の経過という、時間という、光の軌跡という、わたしだ。
わたしは、本当に生きてきていた。
あの日から、ずっと繋がっていた。
確認だけできない、触れられない真実が、時間で、風化で、変質で、宇宙で、安心だ。
わたしは本当に生きてきていた。そしてそれはきっとあなたもだ。同じ時間軸に、わたしたちはずっといた。